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| おすすめBOOKS 一読をおすすめしたい本を紹介します。経営管理室に問い合わせ下さい。出版社名の後の番号はナイガイの書籍登録コードです。 |
| 曽野綾子「老いの才覚」 |
曽野綾子「老いの才覚」2010年 ベスト新書 NST212-001
小説、エッセイ、評論、そして日本財団会長等々多彩な活躍をみせる曽野綾子さんが、「老い」について考えました。人は生きている限り必ず老いを迎えます。しかし、近頃はその老いを生きる力がちょっと衰えてきなのではないかと言っています。曽野さんは老いの基本は「自立」と「自律」だと言っています。「老い」を学び、「老いて生きる」力を身につけるにはそれなりの努力が必要なのです。「幸せに老いる」こと、それは幸せな人生を送ることであるし、幸せな死を迎える力なのではないかと思います。
「自立を可能にするのは自律の精神」 年を重ねるにつれて、自立の大切さを感じるようになったと述べましたが、一般的にはそれは経済上、肉体上の自立を意味します。しかし同時に、自立を可能にするものは自律の精神であるということもわかるようになりました。 老年は、中年、壮年とは違った生き方をしなくてはいけない。このことをはっきりと認識することが、自律のスタートです。 年をとると、自己過保護型になるか、自己過信型になるか、どちらかに傾きがちになります。別の言い方をすると、自分は労ってもらって当然と思うか、自分はまだやれると思いすぎるかです。後者の例として「私は体型が三十代と変わらないんですよ」などと自慢している老年がいます。若さを保ちたいという意欲はけっこうですが、体型は三十代と同じであっても、体内のほうは確実に変わっています。それを受け入れて、年相応の健康を目指すほうが自然じゃないでしょうか。 つまり壮年、中年時代は、目もよく見え、耳もよく聞こえ、免疫力も高かったかもしれませんが、そうではなくなった今の自分に合う生き方を創出する。それが晩年の知恵だと思うのです。 P.49
「受けるよりも与える側にたつと幸せになる」 受けるより与えるほうが幸いである、と聖書には書かれています。これは信仰の問題ではなく、心理学的実感としても正しいでしょう。 ただ受けているだけの人は、もっと多く、もっといいものをもらいたいと再現がなくて、配偶者が「してくれない」、嫁が「してくれない」と不満が募る。しかし、与える側に立つと、ほんの少しのものでも些細なことでも楽しくなるし、相手が喜んでくれれば、さらに満たされる。与えるほうが、ずっと満足感があるわけです。 **中略** 人間は受けもし、与えもしますが、年齢を重ねるにつれて与えることが増えて、壮年になると、ほとんど与える立場になります。そしてやがて、年寄りになってまた受けることが多くなっていく。その時に、人によって受け方の技術に差が出てきます。 ただ黙って受けるだけなら、子供と同じです。もし、「ほんとうにありがとう」と感謝して受けたら、与える側はたぶんうれしい。お茶を一杯入れていただいて、何も言わずに当然のように飲むのと、「あなたのおかげで、今日はおいしいお茶が飲めました」と言うのとでは、相手の気持ちが全然違うでしょうね。 与える側でいれば、死ぬまで壮年だと思います。おむつをあてた寝たきり老人になっても、介護してくれる人に「ありがとう」と言えたら、喜びを与えられる。そして、最終的に与えることができる最も美しいものは、「死に様」だと私は思っています。子供たちは今、死ぬということを学ぶ機会があまりないから、それを見せてやることだけでも大した仕事だと思います。死後、臓器の提供や献体を希望する人もいるでしょう。どんなによぼよぼになっても、与えることができる人間は、最後まで現役なんですね。 P.70
「してもらうことを期待していると愚痴がでる」 何度も言いますが、してもらうことを期待していると不満が募って、つい愚痴が出る。老人の愚痴は、他人も自分もみじめにするだけで、いいことは一つもありません。それどころか、愚痴ばかり言う老人のぞばには、人間が集まらなくなります。愚痴は日陰の感じを与えるからです。反対に、何でもおもしろがっている老人には陽の匂いがして、人が寄ってきます。 P.117
「怒りは幼児性の現れ」 通常、年を重ねた人は、世間の事柄を分析することと、その奥にある密かな理由を推測することに長けてきます。だから簡単に怒れなくなる。しかし最近、分別盛りの中年や世故に長けたはずの老年の中にも、すぐ怒る人が増えてきたような気がしてなりません。そういう年寄りは、たぶん自分の立場や見方だけに絶大な信用をおく幼児性が残っているのでしょう。 P.118
「お墓参りは心の健康を保つ」 亡き人と自分が残していく者のことを考えると、宗教的行事も大事な気がします。日本人には無神論者が多いと言っても、クリスマスの日は教会はいっぱいですし、有名なお寺や神社に行くと一所懸命にお参りしている老人をたくさん見かけます。多くは、真の意味において、宗教的な行為ではないのかもしれません。 しかし、無為に過ごすことが多くなる老年にとって、墓参やお寺参り、お坊さんの講話を聞きに行くことなど、外出の目的ができるのは、心身の健康を保つためにはいいことだと思います。 P.158
「引き算の不幸ではなく、足し算の幸福を」 私はキリスト教の信仰から、失ったものを数え上げずに、持っているものを大切に思うことを子供の時から習慣づけられました。自分が持っているくだらないものを評価できるのは、それも平凡で日常的なものですけれど、一種の芸術だと思います。これが私の足し算の原理です。出発点を低いところにおけば、すべてがそれより幸運なわけですから、どんどん足し算ができるのです。 生れてきた時は、皆ゼロです。それを考えたら、わずかなものでもあればありがたいと思う。ああ、こんなこともしていただいた、あんなこともしていただいたという足し算で考えれば不満の持ちようがありません。 でも、あって当然、もらって当然と思っていると、わずかでも手に入らなければマイナスに感じて、不服や不満を言い始める。これを、引き算の不幸と言います。 今の日本は皆の意識が「引き算型」になっている気がします。豊かさであれ、安全であれ、すべて世の中が与えてくれるのが当たり前、と百点満点を基準にして望むから、不満ばかりが募って、どんどん不幸になっていくわけです。 P.163
**生と死**
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| 高橋繁行「お墓は、要らない」 |
高橋繁行「お墓は、要らない」 2010年 学研新書 NST211-025
「坊主はいらない」「お寺は要らない」「葬式はいらない」そんな本が最近妙に本屋に目立つ気がします。葬祭関係のルポルタージュを多数著している、高橋繁行氏が、いよいよ「お墓は要らない」という本を出してしまいました。ほんとうにお墓は要らないのか、そんな思いで読んでみました。先祖に対する思い、家族に対する思い、それは決してないがしろにしているわけではないようです。ただそんな思いを、「お墓」が満たしているのか、そんな問いのような気がします。我々は、もっともっと「お墓」とは何かということを、将に今だからこそ考えなければならない、そんな思いを満たす「お墓」を創造しなければならない、改めてそんな思いにさせられました。
**信仰宗教 葬制**
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| 齊藤孝「15分あれば喫茶店に入りなさい。」 |
齊藤孝「15分あれば喫茶店に入りなさい。」2010年 幻冬舎 NST211-026
妙なタイトルの本だったので、つい覗いてしいました。要はちょっとした隙間時間を有効に使いましょうということでしょうか。ちょっとした時間を上手に使う工夫がいろいろ述べられています。そんな工夫の繰返しが、結局は人生を豊かにしてくれるのかも知れません。移動中の空き時間にでも一読して、無駄な時間の有効化のヒントにしていただければと思います。尚、筆者は例の「三色ボールペン」の提唱者、齊藤孝氏です。
「企画は少人数の方が効率的」 企画会議などは、じつは参加者全員でやるときわめて効率が悪いものです。それよりは気の合うメンバーが二人で集まり、短時間で集中して話をしたほうが、いいアイデアが出ることが多いのです。 大勢で長時間の会議をするより、「いろいろ新しい発想が出て面白かった」「会議では俺がプレゼンするから、お前はフォローしてくれ」といった感じで、上手にコンビを組むことができる相手を短時間で話をまとめるほうが、ずっと効率的です。 P.94
「自己肯定力をもち責任転嫁しない」 自分の行動を反省できない人は、往々にしてネガティブなことをすべて他人に責任転嫁している場合が多い。 それをやりつづけていると、現実の世界での客観的な評価と、自己評価がどんどんずれていきます。その結果、あいつは自己客観視たできていない、という烙印をおされることになります。 大切なのは、本当の意味での「自己肯定力」をもつことです。責任転嫁は自己肯定力ではありません。自己肯定力もなく、自己客観視もできず、二つの柱の両方が弱いから、責任転嫁をしてごまかすのです。 まわりが駄目でやってやれない、などと言う人自身が、じつはいちばんどうしようもない、というケーズはとても多いのです。 P.101
「懸案事項をもとう」 しかし、ある程度以上まで仕事ができるようになりたい、そして出世したいという人、あるいはそもそも仕事が好きだという人の場合は、懸案事項こそが重要です。 おのずから懸案事項がどんどん増えていくように働きかけ、「コレとコレとコレがどうしても頭に引っかかっているから、調べなくてはいけない、考えなくてはいけない、整理しなくてはいけない、文書化しなくてはいけない・・・・・・」ということを、自分のなかでたくさんつくっていくべきです。 P.106
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| 門倉貴史「本当は嘘つきな統計数字」 |
門倉貴史「本当は嘘つきな統計数字」2010年 幻冬舎新書 NST211-027
数字を使って表現すると、いかにもそれらしく、かっこよく表現したつもりになってしまうことがあります。その数字、ほんとうに大丈夫ですか、そんな問いに答えられる数字を使いたいものです。でたらめな数字を見抜ける目を育てたいものです。 本書は、統計のもついい加減さ、でたらめさ、そんなものを取り上げ、そんなものに騙されない、誤魔化されない目を養うことを訴えています。母集団の性質を無視した確率統計、違うものを平気で比較する無知な数字、数えられないものをあたかも数えたフリをする嘘、科学的という言葉で装われたマジック、あらかじめ結論が決まっているアンケート調査の分析結果、そんなものに対する確かな目を育ておかないと、大変な過ちを犯してしまいます。数字で表現することが多い人は、数字で表現されたものを読み込むことが多い人は是非一読をお薦めします。
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| 久坂部羊「日本人の死に時」 |
久坂部羊「日本人の死に時」2007年 幻冬舎新書 NST211-024
長寿、長生き、それはもちろん大変おめでたいことではあります。しかし、何のための長寿、何のための長生き、こう考えたとき、幸せな老後とは何か、そんなことを考えざるを得ないと思うのです。ただ単に生き続けることだけに囚われてしまうと、生きることの本質をどこかで失ってしまうような気もするのです。生きることももちろん大切な価値ではありますが、同じように死ぬことも大事なことではないでしょうか。そんなことを考えさせてくれる一冊です。
「幸福な老後には満足力をつけること」 だから幸福な老後を目指すなら、自らの境遇をあれこれ言う前に、”満足力”をつけたほうが早道ではないでしょうか。老人の知恵として、欲望にはきりがないと悟り、”無頓着力””満足力””感謝力”などをつけたほうがいい。それができれば、浅はかな若者たちも自然な敬意を抱くようになるでしょう。 P.117
「片手落ちのPPK(ピンピンコロリ)」 これから老いていく人は、元気に生きることばかりを考えて、その先のことを意識していないのではないでしょうか。長生きしてからどう死ぬのかを考えても、遅い気がします。だから、もし長生きを望むのなら、そのあとどう死ぬかまでしっかりイメージしておいたほうがいい。長生きすると、当然、身体は老いて弱りますから、死ぬ前にはある程度苦しい期間があります。思い通り動けないとか、あちこち痛いとか・・・・・・。そうなってから、こんなはずではと思わないためです。 ***中略*** どうすればピンピン長生きできるかは、みんなものすごく熱心なのに、コロリと死ぬことには目を向けない。これはどう見ても片手落ちじゃないでしょうか。まるでピンピン生きさえすれば、あとは自然にコロリと死ねるとでもいうような甘い見通し。 ピンピン長生きするということは、健康に気をつけ、身体を大事にすることでしょう。そんな人は、身体が丈夫な分、最後はだらだらと死に向かいます。発作を起こしても死に損ねたり、身体は元気でも脳は完全な認知症ということになりかねません。ピンピンばかり目指す人は、長生きの恐ろしさへの想像力が足りないと思います。 「PPK」と言うならば、いつまでもピンピンではなく、適当にコロリといく方法をも考えておかなければなりません。縁起でもないかもしれませんが、目を背けていてもいずれそのときはやってきます。 P.123
「死に時のすすめ」 何ごとにも、ころ合いというものがあります。 食べ時、買い時、勝負時、踏ん張り時、潮時、やめ時。 死ぬのにも、死に時というものがあると思います。 これまで医学は、命を長らえさせることを目的としてきました。病気や怪我で自然な寿命を縮められていたあいだは、それでよかった。しかし、今はもうその時代を過ぎています。自然な寿命以上に命を長らえさすと、悲惨な長寿になってしまう。 多くの人がそれを知らずに、素朴に長生きを求めています。そして、実際に長生きしてから、そのつらさに気づく。どこかで悪循環を断たなければなりません。 P.191
**生と死**
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